見失うことのない愛〜真我に出会う旅4〜

そして、旅の途中から思い出していくもの・・・

目次

懐古

幼い頃から・・・厳密に言えば、生まれる前から、神様が大好きでした。

その愛の深さは、まるで神を愛するだけのために生まれてきたのではないかと感じるほどでした。

いつも愛に包まれている感覚がありました。その愛を支えてくれた存在もありました。過去の記事にも登場するゼウス、そのお方です。
中学生の頃から20歳くらいまで書きためた自作の詩集の詩のほとんどは、実は、創造主への愛を表現した詩です。
不思議な、そして美しい詩だとよく言われました。
いついかなる時にも、まるで絶望の淵にいるかのような心情の時にさえも、湧き出でて止まることを知らない純粋な愛は、誰にも宿る同じような何かを呼び起こすものがあるのかもしれません。

その愛を自分の中に確かめる時、まるですべてがすでに永遠であるかのように感じていました。

「神は人間の作ったものだ」「神なんかいない」そういう意見を投げかけられるほどに、自分の中の揺るがない信頼と愛とを知りました。今でも、その方々が納得できるような説明は出来ないかもしれませんが・・・神の存在を疑う余地は、私の中でどこを探してもありませんでした。
救いを求めるような表情の抗議に、ただ、にっこりと微笑むことでしか、答えることができませんでした。
信頼を言葉で表すことは、とても難しいと感じることがあります。

数々の宗教

私は、宗教が大好きです。
どの宗教も、許されるならたくさん学んでみたいと考えているほどに、好きです。

唯一つの宗教を愛するお方にとっては、「何て節操のない!」と叱られるかもしれませんが、私の全ての宗教を好きな理由をお話しすれば、少しは受け入れていただけるかもしれません。

その理由の最たるものは、純粋な信者からは「神の愛に応えようとする」心を感じるところにあります。
神様がどのような御姿でも、どのような御名でも、どのような教義でも信仰でも、それぞれの人が自分に合ったやり方で神の愛に応えようとしています。

宗教によって、神や人生、世界は様々な解釈のされ方をします。私にとって、その違いを知ることも、大きな喜びの一つであり、様々な宗教を愛する理由です。
それぞれの特性、それぞれの段階に合った形で、志を同じくしている魂の兄弟姉妹が世界中にいることを、私は心から嬉しく心強く感じているのです。

宗教は時に、その強い思いから、自分の正義を賭けた争いに発展することもあり、「宗教のせいで聖戦などがあるじゃないか」と、思われるお方も少なからずいらっしゃるかと思います。
私から見ても、いかなる理由があっても尊い生命を奪い合うことは確かに言葉にならないほどに悲しいことです。何より神は、そのような暴力を望んではいません。
しかし、その暴力への向き合い方は、反発や諦めや怒り、はたまた軽蔑ではありません。

地球は、それぞれの段階の学びを私たちに提供し、また、違った段階にいる兄弟姉妹達に憎しみ合うのではなく、互いの神性の助けとなるように手を差し伸べ、愛で奉仕できる場として見守ってくれています。

それぞれが信じ、大切に尊ぶものが、愛の元で尊重され、創造主の元で一つになる時、地球人類は生きながらにして生まれ変わることでしょう。
それは、宗教を一つにするということではありません。
宗教を含むたとえどんなに相反するように思えるものでも、その根源は一つでしかないのだと気づき、同じ木の枝同士が互いを同志だと知り讃え合うこと、その意識が目覚めるだけで、1秒前の世界がまるで夢だったかのように、私たちは一つになることが出来るのです。それは、現実に一つであったのだと、長い夢から覚め、気が付くからなのです。

見失うことのない愛

創造主への愛は、実に素敵なものです。

こんなにも愛されていることを、嬉しく、ありがたく、尊く、まるで私の全ての喜びが詰まっているかのように感じていました。
そして、その愛が全ての人、全ての存在に、等しく注がれていることへも、同じ言い表せないほどの喜びを感じていました。

男女間に起こるような執着とも違う、親子の間の時に期待の入り混じる愛とも違う、ただただ純真な愛そのものが、私の奥にある生命の泉から創造主へと向かって止まることを知らないかのように湧き続けて、今日に至ります。

真我を感じようと胸の奥に集中すると、創造主からいただいているものなのか自分から湧き出るものなのか、豊かに穏やかながらも力強く包み込む愛が、内から外から内へ外へどちらからが先とも言えずに広がります。

まるで愛は生き物かのように、感触さえあります。
純真な愛は、存在なのだと感じ入ります。

永遠に決して見失うことのない愛、枯れることのない愛が、私たちそのものであり、その愛に奉仕できる愛が全ての魂に備わっています。

愛を体現する

人生において愛を体現するには、行動しかありません。

愛を体現することは、ありのままの自分自身「真我」が真に望むことを行うということでもあります。

私の真我は、何を望んでいるのでしょうか。インタビューをしてみましょう。^^笑
インタビューといっても、胸の奥深く宇宙に繋がっている場所にいる真我に問いかけるだけです。
私の真我は、創造主の愛に奉仕することを望んでいます。聖らかに輝き、創造主に喜んでいただきたいと望んでいるようですが、清き水の中に浸かって聖らかな人でいることを目的としているのではない。とのこと。
どのような環境にも、愛に奉仕し、創造主の全てのかけらがそれぞれの特性を持って輝けるように、創造主のみならず創造主のかけらの全ての神性に奉仕したい。と答えてくれました^^

行動といっても、人生は時に複雑です。
私たちは、真我の存在を忘れ、エゴを抱きながら人生を歩んでいるためです。
精神世界では嫌われてしまうエゴですが、実はエゴは、まだ幼い段階の精神を守るものでもあります。
その保護の役割が必要なくなった時に初めて、取り外すきっかけが訪れます。
ところが、愛は傷つくことはありませんが、エゴは傷つきます。
傷ついたエゴは、時に攻撃性を伴います。差し伸べた手が凶器に見えてしまうほどに、取り外すことへ抵抗を生むこともあります。
他者の中に、そして自分の中にそのようなことが起こる時、傷ついているのは愛ではなくエゴだということを忘れずに、それぞれの愛を信じて待ったり、愛で包み込むように言葉を届けます。

うまくいかない時も、もちろんあります。
ある人にとっては、戦争や犯罪をゆるせないでしょうし、見ている世界や信じているものが違えば、言葉が届かないこともたくさんあります。
それぞれの愛の段階を受け入れ、それがその時の愛の段階での最善であることをまずは受け止めます。

その上で、自分の言葉が目の前の人に本当に必要かどうかを、胸の奥深くに尋ねてみます。
必要ならば、どのように言葉をかければ良いのかどのように行動をすれば良いのか、わからないときは胸の奥の自分から脳の自分へと応援を求めます。
愛が主体になって知恵を絞ります。

そうやって、愛が主体の行動を心がけ、愛を体現していきます。

これからのこと

真我と出会う旅に出かけて、私は私の人生におけるたくさんのことに気がつきました。

いついかなる時も、そこには愛しか存在していなかったことに気が付きました。

遠い過去生や、出身星にこだわり執着する気持ちも、今はすっかりなくなりました。

「いつだって、今こそすべて。今与えられていることこそすべて。・・・そして未来を選び、過去は輝く。」この言葉が、胸の奥で優しい光と共に眩いばかりに輝きます。

さて、皆様の素敵な素敵な旅はいかがでしょうか^^
私も、まだまだ素敵な素敵な旅の途中です。^^

愛に奉仕し、愛を体現するために、どのように行動していけば良いのか、これから更に実践を重ね、たくさん失敗しながら学び、そして、更に自分の奥深くまで到達できるように、宇宙中の魂の兄弟姉妹達と共に、朗らかに歩んでいきたいと思っています^^

これからも、素敵な素敵な旅を。
遠くから、近くから、全ての兄弟姉妹の幸福を祈っています。

全ての兄弟姉妹、そして・・・創造主へ・・・愛をこめて。

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この記事はシリーズものです。関連記事は上のリンクからご覧ください。

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